2021-04-28 第204回国会 参議院 憲法審査会 第1号
日本は、当時、革新官僚と言われる国家社会主義の人たちとコミンテルンが同居をしていると。同じ内閣、例えば近衛内閣には全く右と左が一緒にいるなんというすさまじい時代だったんですね。そういうときに、官僚統制、中央集権型のシステムというのが完成をいたします。 戦前の日本はごく普通の資本主義の国でありました。地方には、相当アバウトではありましたけれども、財源があったんですね。
日本は、当時、革新官僚と言われる国家社会主義の人たちとコミンテルンが同居をしていると。同じ内閣、例えば近衛内閣には全く右と左が一緒にいるなんというすさまじい時代だったんですね。そういうときに、官僚統制、中央集権型のシステムというのが完成をいたします。 戦前の日本はごく普通の資本主義の国でありました。地方には、相当アバウトではありましたけれども、財源があったんですね。
戦前の日本はごく普通の資本主義国家だったのでありますけれども、昭和金融恐慌や大恐慌によってもたらされた貧困対策をおろそかにしたために、国家社会主義とかコミンテルン思想がはびこった。で、昭和十五年前後にこういう統制経済のシステムが確立された。ネーミングしたのは、野口悠紀雄さん、元大蔵官僚でございますが。
そこで国家社会主義がばっこし、コミンテルンの世論せん孔工作がはびこると、そういうことになってしまったわけであります。 大体、昭和十五年前後に日本の戦後レジームと言われるものの非常に多くが固まってきていますね。例えば、九電力体制なんというのもそうですよ。源泉所得税や法人税法ができたのもこの年。地方配付税、地方交付税ですね、この原型ができたのも昭和十五年であります。
ソ連が同盟国でもありましたし、コミンテルンのスパイがルーズベルト政権の中では暗躍をしていた。ハリー・デクスター・ホワイト、アルジャー・ヒス、ラフリン・カリーとか、有名なスパイもたくさんいるわけであります。日本に来たGHQの部隊はニューディール左派と言われる人たちで、こういった極めて社会主義的な発想で戦時利得を没収をするという目的で作られたのがこの財産税であります。
国家社会主義の体制が確立をしてまいりますが、御案内のように近衛内閣にはコミンテルンのスパイがいました。尾崎秀実という、ゾルゲ事件に連座をして処刑をされると。右と左が一緒に同居している、非常に不思議な時代だったんですね。 そういう時代に何が行われたか。まず、国家目的に奉仕するために統制会という経済団体がつくられました。今の経団連であります。
この人は、コミンテルンのスパイだったということは後にばれるわけでありますが。金正恩委員長の下での北朝鮮もコルレス口座のドル決済口座凍結をされて、相当干上がったと思うんですね。 しかし、北は、昨日の朝鮮中央通信、段階別、同時行動原則というのを言ってまいりました。ポンペイオ国務長官は、二年後ですか、次の大統領の任期までにどうにかしたいというようなことをおっしゃっておられた。
そのような国家社会主義の時代、暗躍していたのがコミンテルンのスパイですね。例えば、朝日新聞記者であった尾崎秀実、こういう人は近衛内閣の中枢に食い込んで、北進論、要するにソ連と対峙する北進論を抑えようというので、日支事変以降の戦争を長期化、拡大させようという世論の刷り込み工作と同時に、内閣の刷り込み工作、せん孔工作をやっておったという時代ですよ。
○山添拓君 大臣はほとんど御存じないということだったんだと思いますが、細川嘉六さんというジャーナリストが「改造」という雑誌に発表した論文がコミンテルンと共産党の目的のためにする行為だと陸軍に摘発をされて、「改造」やあるいは中央公論、その編集者、研究者が次々と逮捕されたという事件です。
特にコミンテルン等の指令というようなものがあった時代ですからね。そういう中で、日本の政治家あるいは経済人あるいは労働組合、本当に何が正しいかというモラルを再構築していこうということで随分大きな成果を上げた団体だと承知をしております。自民党の国会議員、先輩の方々、随分関わられましたよね。今でも、羽田孜さんが会長をしていたんですが、河村建夫先生が副会長をされているというふうに聞いております。
○犬塚直史君 もう少し引用をいたしますと、「実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。」と。もう一つ引用しますと、「日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。」というふうに書いてあるんですね。これは非常に政治的な、つまり現場の人間ではなくて、歴史認識あるいは侵略の定義にかかわるような非常に政治的な発言だと思うんですが、外務大臣、どのようにお考えになりますか。
さきの戦争といいますけれども、東京裁判史観に乗ってのもの、開国、日清、日露戦争からの歴史の大潮流、ワシントン軍縮会議、日英同盟の破棄、人種平等への日本のスタンス、欧米列強諸国とコミンテルンの力の間で翻弄されてきた日本、そうした複眼的な視点で、そしてまたもう少し大きな視野から膨らみを持った歴史QアンドAというものが、というような答えがやっぱり必要とされるのであって、これでは誤解をますます広がらせるような
その近衛文麿の側近であった尾崎秀実という、朝日新聞の記者でございましたが、この人がいわゆるコミンテルンに協力するために日本の情報を全部、ノモンハン事件のときから、総理大臣のかばんの中からソ連に全部提供をしていたという事実があります。 こういうことを考えてみますと、日本というのはスパイ防止法もない。
しかも、当時のコミンテルンは、日本の共産党に対して、当時は非常に小さいものでありましたが、皇室の廃止を指令したということを当局はつかんだわけであります。そうしますと、危機感は非常に大きくなったわけであります。 まず、陸軍は、日露戦争以来、あの広大な満州に一個師団しか置いていませんでした。これは、まことに治安維持だけの軍隊でありました。
例えば、天皇制という言葉は、恐らく一九三二、三年ごろのコミンテルン、ここから始まって、昔はむしろ皇統とか皇室という言葉が使われていたというふうに思いますが、その辺の、統帥権を持った天皇というものと本来の天皇制というものをどういうふうに考えていらっしゃるのかということ。 それから、どのあたりから侵略過程に入ったというふうにお考えになっているのかということ。
ある意味では、私は、あのときの共産党の反対というのは、コミンテルンの支配とかいろいろあったでしょうけれども、しかし、言い分だけを眺めれば、国家というものを一番きちっと認識した真っ当な反対論だったと私は思いますな。 だけれども、とにかく、結果としてこれが国会で是とされた。
コミンテルンが世界赤化のためにある一つの戦術を打ち出しております。それはコミンテルンの第七回大会で打ち出された民族統一戦線方式でございます。それは、共産主義革命をやるにはただ労働者、農民だけでは足らない、そういうものではなくブルジョアも一緒にしよう、学生も婦人も、全階層、全民族一緒にしてまず帝国主義を討とうというのであります。これを民族統一戦線と言います。
そしてこの人はドイツ大使に非常に取り入りまして、そしてドイツ大使館には自由に入ることができたといいますが、実際はコミンテルンのスパイであったわけですね。これは判決文に書いてある。私は判決文を読ましていただいた。書いてあるんですよ。この方は非常に合法的にやっております。
要するにこの事件は、ソ連赤軍の諜報機関であります同赤軍第四本部の指揮統制のもとに、駐日ドイツ大使顧問リヒャルド・ゾルゲを中心とする外国人四名及び尾崎秀実を中心とする日本人約三十名が、昭和九年ごろからわが国の政治、外交、経済、軍事等、各般にわたる機密を探知収集し、これを短波無電、写真フィルム等により、赤軍第四本部を通じてソ連政府、同国共産党中央委員会及びコミンテルン本部等に通報漏洩していた、こういうものでございまして
それだけに、私の方から言いますが、日本共産党員であった方が、アメリカ共産党員、中国の共産党員、その背後にモスクワのコミンテルンの指令があってこのゾルゲ事件というのは仕組まれていくんです。そういうときに、この日本共産党員が一体どういうふうな動き方をしたのか、アメリカの共産党員がどういう動き方をしたのか。これは日米は戦わなくてもよかったようなものが戦わされたという記録がここにはっきり出てくるんです。
「ソ連が、コミンテルンの世界にわたる組織を通じて、日米交渉の破壊を策することは当然のことである。コミンテルンの政策は、日本のソ連に対する力を減殺せんがために、日支の衝突を誘起し日本の北進を転換して南進せしめ、更に日米の戦争に導くことにあった。この目的のために、支那における共産分子は勿論のこと、日本をはじめ欧米における第五列的共産勢力は最も有効に働いた。」と。これです。
この中では、たとえば被告の人たちがコミンテルンの指令によって共産党の再建に努めたとか、あるいは共産党再建のためのさまざまな会合を開いて同志的な結合を図った、こういうことが認定されているわけです。しかし、歴史的には、これが架空のでっち上げ事件だったということは、もう定着したというふうに見ていいと思うのです。
きょうここに野坂議長も傍聴に見えておりますけれども、あの三二年テーゼは単なるコミンテルンの指令でなくて、片山潜や野坂参三、日本の共産主義者も参加してつくったものであります。そういう点で、この三二年テーゼで内乱という言葉を使ったのは、帝国主義戦争の場合内乱という言葉を使ったので、あの十五年間の侵略戦争で三百十万人、日本人が殺されている。
で、昭和八年の、この事件が起きる前の年の昭和七年にソ連から、つまり世界共産党——コミンテルンですね、これから指令が出ているわけですよ。これがいわゆる三二年テーゼと言って世界共産党から日本共産党の、これはコミンテルン日本支部でございます。日本共産党というのは向こうが本部でこっちが支部ですから、当時はそういう関係でもって指令が出ていた。その指令が問題なんです。
そういう問題が、コミンテルン時代は命令・服従の関係であった。いまはマルクス・レーニン主義の基本原則でやはり国際連帯なくして革命はできないということになっている。コミンテルンはなくなった。そうするとまるっきり変わったか。基本的なテーゼは同じなんですよね。ところが自主独立ということを言い出した。
○国務大臣(稻葉修君) 昭和七年、一九三二年のコミンテルンからの指令、これはその事実があったことを確認いたしておりますし、当時の共産党の綱領にもその点についての記録はあるわけですから、だれ一人疑う余地はありません。